1858年、ニューヨークの裕福な家庭に生まれます。幼い頃は病弱でしたが、猛烈なトレーニングで屈強な肉体を手に入れました。1901年、マッキンリー大統領の暗殺に伴い、アメリカ史上最年少となる42歳で第26代大統領に就任。持ち前の強烈なエネルギーで国を引っ張りました。
趣味の熊狩りに出かけた際、同行者が捕まえた小熊を撃つように勧められましたが、「瀕死の小熊を撃つのはスポーツマンシップに反する」として銃を下ろしました。このエピソードが美談として新聞で報じられ、彼の愛称「テディ」から「テディ・ベア」というぬいぐるみが誕生しました。
日本の武術や精神性に強い関心を持ち、日本人柔道家・山下義韶(やましたよしつぐ)をワシントンに招いて直接指導を受けました。なんとホワイトハウスの中に専用の道場まで作り、自ら熱心に稽古に励んで有段者(茶帯)になるほどの大の親日家でした。
青年時代にハーバード大学で学んでいた際、日本人留学生であった金子堅太郎と知り合い、意気投合して固い友情で結ばれていました。この個人的な熱き繋がりが、のちに国家の存亡を懸けた日露戦争において、日本を救う最大の生命線となります。
1904年に日露戦争が勃発。日本軍は連戦連勝を重ねますが、実は資金も兵器も尽き果てて限界ギリギリでした。これ以上戦争が長引けば日本が崩壊してしまうと考えた政府は、ルーズベルトの親友である金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣し、和平の仲介を懇願しました。
金子からのSOSを受けたルーズベルトは、見事な外交手腕を発揮します。強国ロシアのニコライ2世に圧力をかけ、アメリカの軍港であるポーツマスに日本(小村寿太郎)とロシア(ウィッテ)の代表団を招き入れ、粘り強い交渉の末に「ポーツマス条約」を締結させました。
圧倒的な大国ロシアと極東の島国日本の巨大な戦争を、見事な仲介によって終わらせたこの偉大な功績が世界中から高く評価され、1906年にアメリカ人として史上初となる「ノーベル平和賞」を受賞するという歴史的快挙を成し遂げました!
外交方針は「穏やかに話し、しかし大きな棍棒を持て」というスローガンで知られる「棍棒外交」です。巨大な海軍力を背景に中南米などに介入し、パナマ運河の建設を強行するなど、アメリカを世界最強の帝国へと押し上げる強硬な外交も展開しました。
大自然をこよなく愛するナチュラリストでもありました。大統領在任中、森林伐採や乱開発からアメリカの美しい自然を守るため、数多くの国立公園や野生動物保護区を制定。現代のアメリカの自然保護の基礎を築き上げた「自然保護の父」としても尊敬を集めています。
大統領退任後、再び大統領選に出馬した際の遊説中、暗殺者に至近距離から胸を銃撃されてしまいます。しかし、分厚い原稿と眼鏡ケースに弾が当たって致命傷を免れると、なんと血を流しながら「大鹿を殺すにはこれくらいでは足りない!」と叫び、90分間も演説をやり遂げた超人です。