1792年、鎖国中の日本(北海道の根室)に突如として現れたロシア帝国の若き軍人・外交官です!ロシアに漂着していた日本人・大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)たちを日本へ送り届けるとともに、日本との通商(貿易)を求めるというロシア女帝エカチェリーナ2世の特命を帯びてやってきました。当時の老中・松平定信ら幕府の首脳陣は「鎖国だから無理!」と貿易は断りましたが、彼の紳士的な態度を評価し、長崎への入港許可証である「信牌(しんぱい)」を渡しました。武力で脅すのではなく、平和的な交渉で日本の重い扉をノックした、日露外交の歴史的な第一歩を記した重要人物です!
1766年、当時スウェーデン領だったフィンランドで生まれました。父は有名な博物学者であるキリル・ラクスマンです。アダムはロシア帝国の軍人として順調にキャリアを積み、若くして優秀な将校に成長しました。父のキリルがロシア政府に対して「日本との貿易」を強く提案したことが、若きアダムと日本を結びつける大きなキッカケとなります。
ある日、父キリルはロシアの極東に流れ着いていた日本人の漂流民・大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)たちと出会います。「彼らを日本へ送り届けることを口実にすれば、鎖国中の日本とも貿易の交渉ができるのではないか!」と考えた父の提案により、20代の若きアダム・ラクスマンが日本への使節団のリーダーとして大抜擢されました。
この日本への使節派遣計画は、当時のロシアの強力な女性君主である女帝エカチェリーナ2世によって正式に承認されました!アダムは「日本人漂流民の返還」と「日本との通商(貿易)条約の締結」という超重大なミッションを託され、エカチェリーナ号という船に乗り込み、未知の国・日本へと向けて出航します。
1792年(寛政4年)の秋、ラクスマン率いるエカチェリーナ号はついに日本の領土である蝦夷地(現在の北海道)の根室に到着しました!鎖国中の日本に、突然巨大な西洋の船が現れたのですから、現地の松前藩の役人たちは大パニック!日本中を揺るがす「ラクスマン来航」という歴史的大事件の幕開けです。
すぐに江戸幕府と交渉したかったラクスマンですが、幕府の対応が遅く、根室で厳しい冬を越すことになりました。しかし、彼は武力で脅すようなことは一切せず、現地の日本人たちにロシアの珍しい品物を見せたり、一緒に食事をしたりと、紳士的でとても友好的な態度で過ごしました。この誠実な人柄は、警戒していた日本人たちを大いに安心させました。
年が明けた1793年の夏、ラクスマンは根室から松前(北海道南部)へ移動し、ついに江戸幕府から派遣されたエリート役人たち(目付・石川忠房など)と直接会談を行います!ラクスマンはロシア女帝の親書(手紙)を渡し、堂々と通商を求めました。幕府側も彼の紳士的な態度には敬意を払い、平和的で丁寧な外交交渉が行われました。
交渉の結果、幕府の答えは「漂流民の光太夫たちは受け取るが、国法(鎖国)により通信や通商(貿易)は絶対にできない。帰ってくれ!」という厳しいものでした。しかし幕府は、ラクスマンの平和的な態度に免じて、特別に長崎への入港許可証である「信牌(しんぱい)」というメダルを与えました。これは当時の幕府としては外交上の大きな譲歩でした。
通商は断られましたが、最大のミッションの一つであった「大黒屋光太夫らの返還」は見事に果たしました。約10年もの間、過酷なロシアで共に過ごし、帰国のために尽力してくれたラクスマンに対し、光太夫は深い感謝の涙を流して別れを告げたと言われています。平和的な使節としての彼の役目は、ここで立派に果たされたのです。
1793年の秋、ラクスマンは日本を離れてロシアへ帰国しました。「信牌」を持ち帰ったことで一定の外交成果を上げたと評価されましたが、直後に強力な女帝エカチェリーナ2世が亡くなり、父のキリルも死去してしまいます。後ろ盾を失った彼は、その後は大きな出世をすることなく、軍人として静かに余生を過ごしたと言われています。
ラクスマンが持ち帰った「長崎への入港許可証(信牌)」は、のちに大きな意味を持ちます。約12年後の1804年、この信牌を持ったロシアの使節・レザノフが長崎にやってくることになるのです!ラクスマンの来航は、鎖国していた日本の重い扉を平和的にノックし、日本が世界という荒波に巻き込まれていく幕末への重要な「プロローグ(序章)」となりました。