1880年、名誉勲章を受章した軍人の父を持つ超エリート軍人一家に生まれました。アメリカ陸軍士官学校(ウェストポイント)では、100点満点中「98.14点」という同校の歴史上でもトップクラスの驚異的な成績で卒業し、若くして天才軍人としてのキャリアをスタートさせます。
第二次世界大戦中、フィリピン防衛の指揮を執っていましたが、日本軍の猛攻を受けてオーストラリアへの撤退を余儀なくされます。その際、必ずフィリピンを取り戻すという強い決意を込めて「I shall return(私は必ず戻ってくる)」と言い残し、見事にその誓いを果たしました。
1945年8月30日、日本の降伏直後、専用機「バターン号」で神奈川県の厚木飛行場に降り立ちます。コーンパイプをくわえ、レイバンのサングラスをかけたその威圧感たっぷりの姿は、日本人にとって「敗戦」と「新しい時代の幕開け」を強烈に印象付ける歴史的瞬間となりました。
同年9月、アメリカ大使館で昭和天皇と初めて会見します。命乞いをするどころか「すべての責任は私にある」と毅然と語る天皇の姿にマッカーサーは深い感銘を受け、天皇を戦犯として裁くのではなく、天皇制(象徴天皇制)を維持して日本の占領統治を円滑に進める決断を下しました。
日本の民主化を急ぐため、GHQのスタッフに「わずか1週間で新しい憲法の草案を作れ!」と無茶振りとも言える命令を下します。このマッカーサー草案をベースにして、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義(第9条)を柱とする現在の『日本国憲法』が誕生しました。
地主の土地を小作農に分け与える「農地改革」、巨大な資本を解体する「財閥解体」、そして「女性への参政権付与」など、日本の古い社会構造を根本から破壊し、アメリカ流の自由で平等な民主主義社会を根付かせるための怒涛の改革を力強く断行しました。
終戦直後の日本は深刻な食糧難に陥り、100万人以上の餓死者が出ると予測されていました。マッカーサーは「私に責任を負わせるなら、食糧を送れ!」とアメリカ本国の政府を強烈に脅し、大量の小麦などの食糧を緊急輸入させて日本の危機を救いました。
敗戦で打ちひしがれた日本人に希望を取り戻させるため、野球などのスポーツを積極的に奨励しました。後楽園球場などでのプロ野球の再開を後押しし、自身も大のスポーツ好きとして日本の娯楽文化の復活に一役買いました。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると国連軍の総司令官として指揮を執りますが、中国軍の介入に対して「原爆の使用」を主張するなど暴走気味に。これが第三次世界大戦を恐れるトルーマン大統領の逆鱗に触れ、1951年に突如としてすべての役職を解任されてしまいます。
日本を去り、アメリカへ帰国した彼は連邦議会で感動的な退任演説を行います。最後に古い軍歌のフレーズを引用し、「Old soldiers never die, they just fade away(老兵は死なず、ただ消え去るのみ)」と締めくくり、52年間に及ぶ激動の軍歴に美しく幕を下ろしました。