1506年、現在のスペインにあるナバラ王国で、貴族の末っ子として誕生します。頭が良かった彼は、フランスのパリ大学に留学しました。そこで、同じくスペイン出身のイグナチオ・デ・ロヨラという熱い心を持った人物と運命的な出会いを果たします。最初は反発していましたが、ロヨラの情熱に心を動かされ、共に神様のために一生を捧げることを固く決意します。ここから、世界を股にかけるザビエルの壮大な人生が大きく動き出していくのです。
1534年、ザビエルやロヨラを含む7人の仲間たちは、パリのモンマルトルの丘に集まりました。そこで「自分たちのすべてを神様に捧げ、世界中にキリスト教の教えを広めよう!」と誓い合い、カトリック教会の新しいグループであるイエズス会を結成します!テストに絶対に出る超重要キーワードです。彼らはローマ教皇からも正式に認められ、腐敗していた教会の立て直しと、海外への布教活動という過酷なミッションに挑むことになります。
イエズス会の代表として、ザビエルはインドのゴアや東南アジアのマラッカへ、命がけの布教の旅に出発しました。そんな中、マラッカで「アンジロー(ヤジロウ)」という日本人の青年と出会います。アンジローから「日本人はとても理性的で、道理を説明すれば必ずキリスト教を信じてくれます!」という話を聞いたザビエルは大興奮!「そんな素晴らしい国があるのか!」と、未知の国・日本へ向かうことを強く決意したのです。
いよいよ日本へ出発!しかし、海賊の船に乗せてもらったり、大嵐に巻き込まれたりと、その道のりは超ハードでした。そしてついに1549年、ザビエル一行はアンジローの故郷である鹿児島に無事上陸を果たします!これが歴史のテストで必ず暗記する「キリスト教伝来(以後よく広まるキリスト教)」の瞬間です。ここから、ヨーロッパの全く新しい宗教と文化が、初めて日本の人々に直接伝えられていく歴史的な大事件となりました。
鹿児島に上陸したザビエルは、薩摩の殿様である島津貴久から布教の許可をもらいます。ザビエルは日本の人々と接して、「これまで発見した国の中で最高の人々だ!礼儀正しく、知識欲が旺盛で素晴らしい」と、その国民性を大絶賛する手紙をヨーロッパの本部へ送っています。しかし、キリスト教が広まることを嫌がる地元の仏教のお坊さんたちから激しい反発や妨害を受け、鹿児島での布教活動は次第に難しくなっていってしまいました。
「地方のお殿様ではなく、日本のトップである天皇や将軍から日本中での布教の許可をもらおう!」と考えたザビエルは、平戸(長崎県)や山口県を経て、首都である京都を目指します。しかし、時は戦国時代。真冬の雪道を裸足に近いボロボロの格好で歩き続けるという、想像を絶する過酷な旅でした。途中で冷たい石を投げられたり、見知らぬ外国人としてバカにされたりしながらも、ザビエルは決して布教への熱い情熱を失うことはありませんでした。
苦労の末にようやく京都へたどり着いたザビエルでしたが、そこで大ショックを受けます。なんと都であるはずの京都の町は、長年の戦乱によって焼け野原になり、ボロボロに荒れ果てていたのです!しかも、天皇や将軍はお金も権力も完全に失っており、面会することすらできませんでした。「今の日本では、天皇の許可をもらっても意味がない…」。ザビエルは絶望し、わずか11日間で京都を去り、再び地方の大名を頼る方針へと切り替えました。
京都から山口へ戻ったザビエルは作戦を変えます。今度は立派な服を着て、西国の大大名である大内義隆(おおうち よしたか)に「西洋の珍しいアイテム」をプレゼントしました。大きな鏡、望遠鏡、そして美しい音を鳴らすオルゴールなどに義隆は大喜び!すぐに布教の許可を出してくれ、お寺を教会として使わせてくれました。この山口での活動が大成功し、わずかな期間で500人以上の日本人がキリスト教の信者になりました。
その後、大分県(豊後国)の強力な大名である大友宗麟(おおとも そうりん)からも大歓迎を受けます。宗麟はのちにキリスト教の洗礼を受けて「キリシタン大名」となる人物です。日本での布教に手応えを感じたザビエルは、「日本人にキリスト教を深く理解してもらうには、彼らが尊敬している中国(明)にも布教しなければ!」と考えます。1551年、後を仲間の宣教師たちに託し、約2年間の日本滞在を終えて旅立ちました。
日本を旅立ったザビエルは、新たなターゲットである中国(明)への入国を試みます。しかし当時の中国は外国人の入国を厳しく制限しており、なかなか中に入ることができません。中国のすぐ目の前にある上川島(しゃんちゅあんとう)という小さな島で待機していましたが、過酷な旅の疲れから重い病気にかかってしまいます。1552年、中国本土に足を踏み入れる夢は叶わぬまま、46歳で静かに息を引き取りました。その熱い魂は、後の宣教師たちに引き継がれていきます。