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フビライ・ハン ふびらい・はん

1215年 - 1294年 鎌倉時代(同時代)
生没年月日: 1215年9月23日 〜 1294年2月18日
国: モンゴル帝国(元) 出身: モンゴル高原 モンゴル帝国第5代皇帝、元朝初代皇帝
祖父チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国を受け継ぎ、中国を統一して「元(げん)」を建国した第5代皇帝(大ハーン)です!遊牧民の軍事力と中国の経済力を融合させ、首都を大都(現在の北京)に定めてユーラシア大陸を股にかける巨大なグローバル帝国を完成させました。日本史においては、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗に対して服属を要求し、二度にわたって日本へ攻め込んだ「元寇(げんこう:文永の役・弘安の役)」を引き起こした最大の脅威として有名です!また、国際色豊かな人材を登用し、ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが彼に仕えて『東方見聞録(黄金の国ジパング)』をヨーロッパに伝えたことでも知られています。交通網(ジャムチ)や紙幣(交鈔)を整備して東西貿易(シルクロード)を空前のスケールで発展させ、世界の歴史を大きく動かした、圧倒的なスケールを誇る世界帝国の覇者のストーリーです!
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偉大なる祖父・チンギス・ハン

1215年、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンの四男・トルイの次男として誕生。幼い頃から聡明で、祖父チンギスからも「この子はやがて我が一族を背負って立つだろう」と高く評価され、大きな期待を背負って育ちました。
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弟アリクブケとの激しい後継者争い

第4代皇帝モンケが遠征中に急死すると、首都カラコルムの留守を任されていた弟のアリクブケと皇帝の座を巡って激突!4年にも及ぶモンゴル帝国を二分する激しい内戦を制し、実力で第5代皇帝(大ハーン)に即位しました。
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新首都「大都」の建設と「元」の建国

1271年、中国風の「元(大元)」に国号を改めます。さらに、遊牧民のテント生活から定住型の帝国へと転換するため、現在の北京に当たる場所に巨大で計画的な新首都「大都(だいと)」を建設し、世界の中心としました。
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南宋の滅亡と中国の完全統一

当時、中国の南半分を支配していた強大な王朝・南宋(なんそう)を長年の激戦の末に打ち破り、1279年に滅亡させました。これにより、異民族として初めて中国全土を完全に統一するという歴史的偉業を成し遂げました。
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日本への国書と北条時宗の黙殺

高麗(朝鮮半島)を服属させた後、日本(鎌倉幕府)に対しても「属国になれ」という国書(手紙)を何度も送ります。しかし、幕府の若きトップである第8代執権・北条時宗はこれを完全に無視(黙殺)し、両国の緊張は極限まで高まりました。
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最初の襲来!文永の役(元寇)

1274年、ついに約3万の大軍を率いて対馬や博多湾に襲来(文永の役)。日本の武士たちは「てつはう(火薬兵器)」や集団戦法に大苦戦しますが、激戦の末に元軍は船へ撤退し、その後の暴風雨もあって日本から退去しました。
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二度目の襲来!弘安の役(元寇)

1281年、今度は約14万という空前の大軍で二度目の日本侵攻を開始(弘安の役)。しかし、幕府が築いた石築地(防塁)に上陸を阻まれて海上で身動きが取れなくなり、そこに猛烈な台風(神風)が直撃して元軍は壊滅的な打撃を受けました。
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マルコ・ポーロと『東方見聞録』

彼の宮廷には世界中から商人や使節が訪れました。中でもヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロは約17年間もフビライに仕え、帰国後に『東方見聞録』を著して日本のことを「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに紹介しました。
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ジャムチと交鈔!空前の東西交易

帝国内に「ジャムチ(駅伝制)」と呼ばれる超効率的な交通ネットワークを張り巡らせ、「交鈔(こうしょう)」という紙幣を流通させました。これにより、シルクロードを通じた東西の経済と文化の交流がかつてない規模で大繁栄しました。
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覇者の最期と巨大帝国の遺産

三度目の日本遠征や東南アジアへの遠征を企てていましたが、晩年は肥満や痛風に苦しみ、愛妻や皇太子にも先立たれる孤独の中で1294年に79歳で崩御しました。彼が築き上げた東西交流の遺産は、その後の世界史に計り知れない影響を与えました。
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