1215年、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンの四男・トルイの次男として誕生。幼い頃から聡明で、祖父チンギスからも「この子はやがて我が一族を背負って立つだろう」と高く評価され、大きな期待を背負って育ちました。
第4代皇帝モンケが遠征中に急死すると、首都カラコルムの留守を任されていた弟のアリクブケと皇帝の座を巡って激突!4年にも及ぶモンゴル帝国を二分する激しい内戦を制し、実力で第5代皇帝(大ハーン)に即位しました。
1271年、中国風の「元(大元)」に国号を改めます。さらに、遊牧民のテント生活から定住型の帝国へと転換するため、現在の北京に当たる場所に巨大で計画的な新首都「大都(だいと)」を建設し、世界の中心としました。
当時、中国の南半分を支配していた強大な王朝・南宋(なんそう)を長年の激戦の末に打ち破り、1279年に滅亡させました。これにより、異民族として初めて中国全土を完全に統一するという歴史的偉業を成し遂げました。
高麗(朝鮮半島)を服属させた後、日本(鎌倉幕府)に対しても「属国になれ」という国書(手紙)を何度も送ります。しかし、幕府の若きトップである第8代執権・北条時宗はこれを完全に無視(黙殺)し、両国の緊張は極限まで高まりました。
1274年、ついに約3万の大軍を率いて対馬や博多湾に襲来(文永の役)。日本の武士たちは「てつはう(火薬兵器)」や集団戦法に大苦戦しますが、激戦の末に元軍は船へ撤退し、その後の暴風雨もあって日本から退去しました。
1281年、今度は約14万という空前の大軍で二度目の日本侵攻を開始(弘安の役)。しかし、幕府が築いた石築地(防塁)に上陸を阻まれて海上で身動きが取れなくなり、そこに猛烈な台風(神風)が直撃して元軍は壊滅的な打撃を受けました。
彼の宮廷には世界中から商人や使節が訪れました。中でもヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロは約17年間もフビライに仕え、帰国後に『東方見聞録』を著して日本のことを「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに紹介しました。
帝国内に「ジャムチ(駅伝制)」と呼ばれる超効率的な交通ネットワークを張り巡らせ、「交鈔(こうしょう)」という紙幣を流通させました。これにより、シルクロードを通じた東西の経済と文化の交流がかつてない規模で大繁栄しました。
三度目の日本遠征や東南アジアへの遠征を企てていましたが、晩年は肥満や痛風に苦しみ、愛妻や皇太子にも先立たれる孤独の中で1294年に79歳で崩御しました。彼が築き上げた東西交流の遺産は、その後の世界史に計り知れない影響を与えました。