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ハリス(タウンゼント・ハリス) はりす(たうんぜんと・はりす)

1804年 - 1878年 幕末
生没年月日: 1804年10月3日 〜 1878年2月25日
国: アメリカ合衆国 出身: ニューヨーク州サンディヒル 外交官、初代駐日アメリカ合衆国総領事
日本を「開国」の次のステップである「自由貿易」へと導いた、初代駐日アメリカ総領事(のちに公使)です!黒船で武力の脅威を見せつけたペリーとは対照的に、軍艦を伴わずに通訳のヘンリー・ヒュースケンらごく少数のスタッフのみで伊豆の下田(玉泉寺)へ赴任しました。幕府の役人たちの執拗な引き延ばし工作や嫌がらせに苦しみながらも、決して武力に訴えることなく、粘り強い「忍耐の外交」を貫きました。江戸城で第13代将軍・徳川家定と歴史的な謁見を果たし、当時の大国・イギリスが中国(清)を攻めているアロー戦争の脅威を巧みに利用して幕府を説得。1858年に日米修好通商条約を調印させるという巨大な歴史的偉業を平和裏に成し遂げました!日本で初めて本格的に牛乳を飲んだ人物とされ、また彼に仕えたとされる女性「唐人お吉」の伝説など、幕末のミステリアスなエピソードにも事欠きません。実はニューヨーク市立大学の創設者でもあるという意外な顔も持ち、引退後も日本を深く愛し続けた、平和的かつ優秀なアメリカン・ネゴシエーターのストーリーです!
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教育にも貢献したNYの商人

1804年、ニューヨーク州で誕生。陶磁器などを扱う貿易商人として成功を収める一方で、教育にも非常に熱心でした。なんと現在の「ニューヨーク市立大学(CCNY)」を創設し、貧しい労働者の子供たちに無償の高等教育を提供するなど、素晴らしい社会貢献を果たしています。
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母の死とアジアへの旅立ち

母の死をきっかけに、40代半ばで東洋の貿易を志してアジアへ旅立ちます。清(中国)やインドなどを巡る中で「まだ鎖国している日本を開国させ、自分がその歴史的偉業を成し遂げたい!」という強い野心を抱き、アメリカ政府へ猛烈にアピールして初代駐日総領事の座を勝ち取りました。
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下田への来航と星条旗

1856年、通訳のオランダ系アメリカ人、ヘンリー・ヒュースケンらと共に伊豆の下田(静岡県)に到着!玉泉寺(ぎょくせんじ)に日本で初めてのアメリカ領事館を開設し、境内に誇らしげに星条旗(アメリカ国旗)を掲げました。ここから彼の長く孤独な闘いが始まります。
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武力に頼らない「忍耐の外交」

黒船の武力で日本を脅したペリーとは異なり、彼には軍隊という後ろ盾がありませんでした。幕府の役人たちはあの手この手で交渉を引き延ばし、スパイを送り込むなどの嫌がらせを行いますが、ハリスは決して激昂せず、論理的かつ粘り強い「忍耐の外交」で幕府と向き合い続けました。
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日本初の牛乳と牛肉?

体調を崩した際、「牛乳」を飲むことを希望しますが、当時の日本に牛乳を飲む習慣はありませんでした。苦労の末に牛乳を手に入れ、さらに境内で牛を屠殺して牛肉を食べたとされており、玉泉寺には「牛乳の碑」や「牛屠殺の跡」という記念碑が現在も残されています。
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悲劇のヒロイン「唐人お吉」伝説

彼が体調を崩した際、幕府が看病のために派遣したとされる芸者「お吉(唐人お吉)」の伝説が有名です。「外国人の妾になった」と差別され悲惨な最期を遂げたとされる物語ですが、実際のお吉がハリスのもとで働いたのはわずか3日間だけであり、多くは後世の創作(フィクション)だと言われています。
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将軍・徳川家定との歴史的謁見

1857年、ついに江戸城への登城が許されます。日本の伝統である「平伏(土下座)」を拒否し、立ったまま第13代将軍・徳川家定に謁見するという歴史的瞬間を迎えました!家定も堂々とした態度でハリスの挨拶に応え、両国の正式な外交関係がスタートしました。
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アロー戦争の脅威を巧みに利用

条約交渉では、当時の中国(清)がイギリスやフランスと戦ってボロボロになっていた「アロー戦争」の情報を巧みに提示。「イギリスが軍艦で押し寄せる前に、平和的なアメリカと条約を結んだ方が絶対にお得ですよ!」と説得し、幕府の心を動かすことに成功します。
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「日米修好通商条約」の調印

1858年、老中の堀田正睦や交渉役の井上清直らと激しい議論を重ね、ついに「日米修好通商条約」の調印にこぎ着けました。関税自主権がないなどの不平等条約ではありましたが、武力を一切使わずに日本の「自由貿易」の扉をこじ開けた彼の外交手腕は、世界的に高く評価されています。
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日本を愛し続けた晩年

1861年に病気を理由に公使を辞任し、アメリカへ帰国しました。その後は表舞台に出ることなく静かな余生を送りましたが、日本での思い出を生涯大切にし、日本に関する書物を読み耽っていたと伝えられています。1878年、73歳で波乱に満ちた生涯を静かに閉じました。
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