1838年、アメリカのメイン州で誕生。独学で動物学を修め、貝などの「腕足動物(わんそくどうぶつ)」の研究に没頭しました。その研究材料である「シャミセンガイ」という珍しい生物が日本の海に豊富にいると知り、1877年に私費で海を渡って来日しました。
来日してわずか2日目、横浜から新橋へ向かう日本初の鉄道に乗車中、運命の出会いが訪れます。列車の窓から外を眺めていたモースの鋭い科学者の目が、崖の土に混ざる白い貝殻の層を捉えました。これが世界的に有名な「大森貝塚」発見の瞬間です!
彼は政府の許可を得て、助手や学生たちと共に大森貝塚の発掘を行いました。地層を記録し、出土品を細かく分類・測定するという、西洋の本格的で科学的な考古学的手法を日本で初めて実践したため、彼は「日本考古学の父」と呼ばれています。
彼の専門知識と並外れた情熱に感銘を受けた日本政府は、創設されたばかりの「東京大学」の初代動物学教授として彼をスカウト(お雇い外国人)!シャミセンガイを採集・研究するため、江の島に日本初の臨海実験所も設立しました。
モースはチャールズ・ダーウィンの強力な支持者でした。東京大学での熱弁を通じて、当時西洋でもまだ議論の的だった最新の学説「進化論」を日本で初めて体系的に紹介し、日本の知識人や学生たちに強烈な知的衝撃を与えました。
大森貝塚から出土した土器の表面に、縄を転がしたような模様がついていることに気づきます。彼はこれを英語で「Cord Marked(縄目のついた)pottery」と報告書に記しました。これがのちに日本語に翻訳され、「縄文土器」という名前が誕生したのです。
科学だけでなくスポーツも愛した彼は、教え子たちに「ベースボール」を教えました。大学の敷地内に自らベースを置いてルールを指導し、学生たちと汗を流したという記録が残っており、日本における野球普及のルーツの一人とされています。
日本の庶民の暮らしや伝統文化に猛烈に惹かれ、特に日本の陶器の素朴な美しさに魅了されて数千点にも及ぶ膨大なコレクションを築き上げました(現在はアメリカのボストン美術館などに所蔵)。能や茶道などにも強い関心を示した大の親日家でした。
急速な近代化(文明開化)の中で失われゆく日本の古い風景や、大工の技術、そして何より「世界で最も礼儀正しく、子供を愛する明るい人々」である日本人の姿を、数多くのスケッチと共に名著『日本その日その日』として後世に残しました。
アメリカへ帰国後もピーボディ科学アカデミーの館長として活躍し、日本との交流を続けました。1923年の関東大震災で東京大学の図書館が焼失したと聞くと、自らの蔵書をすべて寄贈するよう遺言を残し、1925年に87歳で生涯を閉じました。